筆者は福岡出身であり、東京での生活も長かったため、熊本の教育における現状をある程度客観的に判定できると自負している。熊本高校・済々黌高校をはじめとして、熊本にはたいへん優秀かつ高偏差値な高校が多く、高校生自体のレベルとポテンシャルも相当高いな、と正直感じている。東京で教育に携わっていたころには出会えなかったような、極めて優秀な生徒も多数いて、驚いている。
ただ一つだけ、気になっていることがあった。かねてよりなんとなく、熊本県の高校生って教養面において他県に引けを取っているのではないか、と思っていたのだ。具体的には、読書の習慣があまりにも無さすぎるな、と感じるし、作文その他の表現力もあまり芳しくない。広範な意味での「知力」が、学業面での点数や偏差値と乖離しているのである。
まさにそれを裏付ける記事が、11月4日熊本日日新聞より配信された。
「『必要な本が買えません』 政令市で最下位、熊本市の学校図書購入予算」によると、熊本市立の小中学校では、本を買うための予算が少なすぎて、ぼろぼろの本だったり、時代遅れの古い本しか置いてないのだという。どれくらい少ないのかというと、
小学校部門では政令市1位の川崎市(神奈川県)が101万円であるのに対し、
最下位の熊本市が17万円。
中学校部門では政令市1位の名古屋市(愛知県)が184万円であるのに対し、
最下位の熊本市が24万円。
悲しすぎる現実である。額面通りとらえるなら、熊本市の子どもたちは、首都圏の子どもたちの10分の1の教養しか得られないことになっている。「東大一強の時代」でも書いたように、教育における都会と地方の格差は著しい。
教養が無いことが直接もたらす弊害が「引用力の無さ」となる。ひとつの事象に対して誰が何を述べたか、を引用できるかどうかは、まず小論文の作成能力に直結する。さらに、知的な会話ができるか、にもつながるため面接・プレゼン・ディスカッションの能力にもつながってくる。こと大学受験に関するだけでも、デメリットだらけなのは間違いない。
小学生・中学生のころから読書の蓄積を得られないというのは本当にかわいそうなことだ。裕福な家庭は、良書をふんだんに与えられるが、生活に苦しむ世帯では、学ぶ機会も得られないこととなる。学べるのは、ほんの一部の特権階級だけ、という国になってしまうのだろうか。そういう点において、公共の図書館というのは、大きな役割を担ってきたはずだ。予算とは、政治が決めるものである。市政そして県政における善処を期待したい。